馬鹿みたいですね、って笑ってくれればいいんだ。
あぁ、それよりも、何言ってるんですか、って怒ってくれればいい。
怒ったことないけど、萌太は私に怒ったことなんてないけど、ないけどさぁ。
嫌な予感に吐き気がするの、止まらない、止まらない。
これが風邪だったら私はきっと何度となく胸中で殺した神と言われるそれに感謝の涙を流すことになる。
あぁあ。
インフルエンザの予防接種なんて打つんじゃなかった。
「約束したよね」
ごろんと床に寝転がって頬でフローリングの冷たさを感じた。
薄く溝のある嘘っぽい木目が萌太のところまで真直ぐに続いていて、
ただそれだけの繋がりに嬉しくなったことは不機嫌ぶった表情の裏側にひっそりと押し隠す。
「……何を、です?」
ペラペラとした雑誌みたいのから顔を上げた萌太はいつも通りにふんわり微笑んで、こてんと首を傾げた。
それにあわせて耳に掛けていた黒い髪がさらりと揺れ落ちる。
…可愛い、ちくしょう、女の子か、まったく。
頬を膨らませれば冷たい床に押しつけられた左側の頬は膨らまず、金網の上で焼かれる餅のような不細工な顔で私は萌太を見つめたままもう一度。
「約束」
「何のですか?」
「……」
「今日の夕飯はちゃんとハンバーグですよ」
「わーい」
「……それではないと」
棒読みの台詞のように安直な表現を私に返された萌太は、答えがハズレたことが意外だったのか、ううむと口元に手をあてて悩む。
……いったい私は夕飯の献立のことしか頭にないまま膝を泥に汚して冬でも半ズボンのまま駆け回っている小学生とでも思われているのだろうか。
年上のお姉さんをなめてやがるな。
「馬鹿にするなあ」
「してませんよ」
「ふうん」
「してませんって」
「ふぅん、ふぅん」
ふふ、と何がおもしろいのか鼻歌のように軽やかに笑った萌太は長い睫毛の影を落としながら、既に視線をペラペラなそれに戻していた。
求人募集と書かれた雑誌は、間違いようもなくファッション誌や芸能雑誌なんて娯楽的なものじゃなくて、
でも萌太はまるでそんな類のものを嗜んでいるように紙面に視線を向けている。
…なんてことだ。
年頃の美少年がそれでいいのか。
顔だけを上げて、ズルズルと粘着質な液体の気持ち悪いモンスターが這うみたいに萌太に近づいていけば、
萌太は嫌がるわけもRPGの勇者のように切り倒すわけもなく、ただそこにいてくれた。
「もしかしたらね夢だったのかも」
「約束ですか?」
「うん」
「どんな約束だったんです?」
「うん、と」
求人雑誌を床に適当に置いた萌太は空いた両腕を私に伸ばして、猫を抱き上げるように体を支えた。
違うのは私は猫じゃないからちゃんと萌太に腕を伸ばして首に回しているってところ。
さっきまで床に沿うように見上げていた萌太と、目線が一緒になって、やっぱり睫毛がすごく長くて、
肌なんて白くてツルツルで、笑ったら形のいい薄い唇が左右対称に弧を描いた。
途端に恥ずかしくなるのは仕方がない、色んな意味で。
「約束は?気になるんですが」
「……忘れたよ」
「忘れちゃったんですか?」
「うん、すっかり」
「すっかり?」
「うん。たぶん大したことだったけど、今これから萌太にちゅーすることに比べたらどうでもいいかな」
「ちゅーするんですか?」
「いや?」
「いいえ」
喜んで、と言いながら萌太は目を瞑るから、私は少し躊躇ってから綺麗な顔に近づく。
ドキドキ、ドキドキ。
心臓が大きくなったみたいに騒いで、ちゅーだって何回もしたことあるくせに忘れちゃいましたーってかまととぶって。
やっと唇が触れそうになった瞬間にぱちりと萌太の瞳が開いて、スゥッと弧を描いた。
「焦らしているんですか?」
「な」
そんなに近くで言うから、動かした唇が私の唇に微かに触れて、途端に比じゃなく恥ずかしくなった。
思わず後退した私の後頭部をやんわりと萌太の大きな手が押さえ、カチンと固まる。
仰け反ったこんな体勢、キツイのに、萌太はまだそのまま触れるとも触れずともしない。
「いじわるですね」
「な、にが」
「ふふ、くすぐったい」
「萌太の、せいじゃん」
「いやですか?」
「……いやじゃない、けど」
「は可愛いですね」
ちゅう、と柔らかく重なった唇。
私より低い体温、熱がとられる。
吐息が甘くて、触れ合うところから溶けちゃいそうで。
萌太が目の前にいて、幸せで、二人で一緒にいることが、幸せで。
「やくそく、忘れないで」
萌太の首筋に頬を寄せて、まるで独り言みたいに呟いた。
ちょっとだけ聞いてほしくて、すごく聞いてほしくなかった。
けど、絶対に守ってほしかった。
「死なないで」
萌太はただ笑った。
きっと笑った。
その時の表情を見なくてよかった、と私は思っている。
指先冷えて、春を知る。
久々の戯言。
あたたかいだけが春じゃない。
20090118